どす黒い日記帳

展覧会の感想など(主に都内)

#12 ヘタだけどクセにならない

不染鉄という画家がいたという。
さすがに本名ではないらしい。

本名・不染哲治––あまり変わらなかった。

"朦朧体"などを取り入れながら日本画を描き始める。
後年は画壇から距離を置き、ひとり絵を描き続けたという。
この界隈にはよくある話である。

それで、作品。
最初のフロアは何とも、どこを見どころと取ればよいか分からない。
決してうまくないし、画風も定まらない。
かといって独自性が見えるわけでもない。
・・・ただの平々凡々なひとでは?
そう思わずにはいられず、いたく落胆した。

会場自体、日本画、特に軸物の展示に向いているとは思えず、
狭苦しい展示の仕方にも閉口したが、それをおいても作品に魅力がない。
そう思った。

階を降りると、少し様子は変わる。
下手なことに変わりはないのだが、おじさんになってからの方がおもしろい。


重心がいやに高い構図、左右対称への異常な執着、
細かい書き込みとスカスカな余白の落差、日記のようなゆるいポエム。
構成の技術がないのに無理して縦長に目一杯書き込むあまり、
同じ画面でも途中途中断絶していて、ひとり"甘美な死骸"になっている絵も。

それでも、作品によっては味がある。
年代を経て熟成したのか、情緒がプラスされている。
墨の濃淡の使い方、緩急のつけ方も、初期よりはましな気がする。


一通り見て、
作品の横に誰か小学生を一人立たせて写真を撮ったら
しっくりくるのではないかと思った。
日本画壇に 天才小学生 華々しくデビュー」とか見出しをつけて。
会場を回って、天才小学生の作品展を見ている気分だったのである。

もちろん、画家を小学生レベルと貶めたいわけではない。
一つの考察として、そうした見方もあるということである。

不思議だったのは、他の近代日本画展と同様に、シニア層が多かったこと。
これらの作品をどのようなものとして見て、どういう感想を得るのか、
素朴に知りたいと思った。
その点は、おもしろい画家だと思った。

#11 異邦人

サンシャワーが一時期盛り上がりを見せていて落ち着かなかったので、
私も早いところ行っておこうと思った。

前情報からイメージしていたのは、

①シャイニーなアートクラスタや若者達が歓喜して写真を撮りまくりたくなる
大規模でキラッキラしたインスタレーション
②カップルや家族向けのプレイランドみたいな参加型アート

こういったもので満ち満ちた恐ろしい空間だった。

その予想自体あながち誤りではなかったが、
中には瞑想的な絵画やオブジェのような、
個人的に安心して見られるものもあった。
リポートに上がってくるのは、派手な物、光り物ばかりだが。

そうはいえ、困ったことに東南アジアのアートシーンに殆ど知識が無い上に、
社会に問いかける系の作品のあまりの多さから、さっと見るにも中々つらいものがあった。

唐突に現れたカラオケセットから何を考えればいいのか。歌って踊ればいいのか。
部屋いっぱいに吊り下げられた風鈴から環境問題を想起せよとか、無理にも程がある。
一方で、メッセージが分かりやすく説明的すぎるものも、浅くて弱くなりがちだし。

意識低め、インドア派のアート民なので、
問題意識を始終方々から放たれ続ける展示は説教臭くて疲れるし、モヤモヤも溜まる。
社会に問いかける系は、提起者万能というか、向き合い考えることをしなければ
それは受け取る側の責任であるかのような圧力を出しているように感じるからである。
解説に「問いかけ」「提起」と何回使われていたか数えたくなったくらいだが、
問いかけることばかりがアートの使命ではないだろう。
それに結局、風鈴だってオシャレな撮影スポットとなるのが落ちである。

アートフェスのエネルギーに圧され、雨に打たれた捨て犬のような有り様で、
会場を後にした。会場に充満した思いをシェアできない私が悪いのかと考えながら。

ここに出てきたアクティブなアーティスツとは住む世界が違うと言って仕舞えば、
それまでなのかもしれないけれど。

#10 タイトルの悲しみ

好きな作家の展覧会であっても、
タイトルに引っかかる所があって興味が持てないことがある。

至る所で一つ覚えのように奇想奇想と騒ぎ立てるようになって何年経ったか分からないが、
親しみを持たせようとする思いが行き過ぎた、見るも無残なタイトルやコピーを目にすることは、増えているような気もする。


「超ド級日本画

これ程に勢いが先走った中身のないワードには、そうそう出会えるものではない。
何を思えば、このような結論に至るのだろう。

これを見た瞬間、テンションはミニマムである。
いつもなら、この時点でスルーするのだが、それでも画家への思いが勝った。

実際に行ってみた。

多くを述べることは見送りたい。

確かに大きい絵が多かった。迫力もあった。
でも、非常に物足りない。

問題は、会場にあった。
絵が大きすぎて、狭い会場がますます狭くなっていた。
狭いから、十分に退いて見ることもできない。とにかく窮屈だ。
「超ド級」という単語が、虚しく脳内にリフレインする。

解説も、満足できるものでなかった。
というか、「超ド級」を謳っていながら解説はあまりに普通だった。
そこはあくまで古典的だった。

そのようなわけで、消化不良で胃がもたれた。
タイトルがあそこまでひどくなければ、ここまでは思わなかったかもしれないが。
せめて、看板やパネルを全部赤くするとか、
解説で「この画面構成力がパネエ」とか「花が吹っ飛んでてウケる」などと、
「超ド級」とのたまうメンタリティを貫く配慮、心意気があったならと、残念に思う。

#9 ソール兄弟

暑い昼下がり、渋谷へ行った。
目的地へ行く前に、近くのギャラリーへ立ち寄った。

床の上、大きめの石の前に、本の切れ端とバラの切り花が添えてある。

うん。


今日の目的の一は文化村だった。足を踏み入れるたび、
オシャレでハイソサエティな気が充満した空間にどこかしらやられる。
写真家ソール・ライター展。
ある意味、合いすぎて危険な組み合わせである。

この日、2度目の来訪だった。

初めてその名を知った時、「ソール・ライター...魂の作家か?!」と
中学生も呆れるような発想に支配される始末だったが、その写真に引き込まれる。
この系列では、スタイケン、ブルーメンフェルド以来の良い内容と思う。
1度目は、白黒写真つまんないと思っていたが、2度目はわりと面白く見た。
カラー写真がよいのは言うまでもなく。

紙の作品(絵)もよかった。
甘ったるいとか、独自性がないといえばそれまでだが、
写真もそうであるように色彩感覚がよいと思った。1枚くらいほしい。
終盤のヌード写真はつまんない。色ぬったくってるのとか、まるでアラ(略)

会場がオシャレ感でひたひたになっていたこと以外は概ね満足であったが、図録はひどい。
というか、これは図録とは言わない。資料性が皆無だし。ただの本。
なにが「ソール・ライターのすべて」か。


移動する前に、彫刻界のトップランナーの版画展を見る。

相変わらずのこじらせぶりに、苦笑いがこみ上げる。

ついで、目的の二、クエイ兄弟へ。
この展覧会については、感想を述べるに言を弄するまでもないかもしれない。

ドローイングいい。
デコールいい。
ポスターいい。
ダイジェスト映像みじかい。
ダイジェスト映像みじかすぎる。
パネルいらない。
ほんといらない。

去年の葉山の展示は見ていないが、(それゆえ渋谷で開かれたのはありがたいが)
どうしても消化不良の感はある。
映像が命なのだから、もう一つくらい上映スペースあってもいいのにね。
続きはイメフォで!というのは、腑に落ちない。
というか、イメフォ様様であろう。

そういった具合に、渋谷の洗練された文化的環境に浸る半日であった。
クエイ展を後にしてからのことは、記憶がない。

#8 純粋鑑賞、恵比寿

純粋鑑賞

それは、目的を持たない鑑賞。
そこには感動や満足もなければ、不満や苦渋もない。
鑑賞という行為を今一度見直そうという営為である。

まずは市街地にひっそり建つナデ○ッフへ。

地下の写真展を見る。
無人である。
写真がいっぱい並んでいる。
その時代をときめく作家たちの姿などが写っている。
それ以外に、特に受け取ったものはない。
5分ほどで会場を後にする。

ついで、上階でやっていた絵画展を見る。
やはり誰もいない。
絵画があり、ドローイングもある。
ただ、やはり何も感じない。
それらの絵が好きでもなく、嫌いでもない。
ただ、絵である。
ここも5分ほどで出る。

その後、自ら美術館の頂点であると高らかに主張する美術館へ行く。
コレクション展のテーマは、平成である。
時代を色濃く映し出す写真が並んでいるのかと思えば、実にフラットな内容である。
きっと背後には深い意味があるのだろうが、その時の私は淡々と受け止めるほかなかった。

ここに至るまで、とうとう私の心が動くことはなかった。
狙ったわけではなく、結局そうなった。

こうして、純粋鑑賞の試みがひとつ終わった。
たぶん少し疲れている。

#7 王国リベンジ

五月病の只中のせいか、とても意識が低い。
いや、意識が低いのはいつものことだ。

そこで、東京駅丸の内口に構えられた王国に再び乗り込むことにした。

matteblackdiary.hateblo.jp

正面から向き合うことすらできなかった前回の反省を踏まえ、体調管理を心がけた。
そして、ウォーミングアップに近所のナビ派展を見に行った。

こちらは王国ではなく、さしずめティーパーティーの趣である。
全体としては平坦で甘ったるい雰囲気にいまいち入り込めないと思いつつ、
丹念な筆致や周到な構想などが見られて興味深い。
個人的にはドニがいい。

途中MITにも寄ったが、これはどうでもいい。

肝心の王国であるが、今度はちゃんと向き合うことができる。
しかし、やはり納得がいかない。

個人的にヴェルフリがあまり好きでないということもあるが、
この展覧会で何が目指されているのかが、よくわからない。
アール・ブリュットの真打ち、満を持して降臨」といった雰囲気だが、
そんなナイーブなことでいいのかという疑念がぬぐえない。

作品から物語を感じようにも展示されているのは切れ切れの断片だし、
展示の仕方もあまりにそっけない。
前提知識や先入観をできるだけ入れないようにという考慮があるとしても、
主催者側はノーアイデアだからみなさんで考えてね、というのと区別がつかない。
ここまで機械的で無機質な展示を見ると、
担当方々が心神を無にして淡々と処理している光景さえ目に浮かんで恐ろしくなる。
見ている間、どうも落ち着かない気分だったのは、そのせいかもしれない。

そういったことで、やっぱりわからんという結論をもって、王国を後にした。
次は王国とまでいかず、小さな街くらいのものが見たい。

#6 バベルの湯

眩しくつらい黄金週間も終わったことなので、再び上野に行くことにした。

まずはバベルの塔展である。
タイトルの時点で行く気をなくすところだが、ネーデルラントのオイリーな絵画をまた色々と見たいと思った。

絵画展と思っていたら、冒頭は彫刻である。
教会に奉納されたものだろう。聖人像とか上がる。

一番気に入ったのは、中盤のあたり。
不恰好な馬とか、ソドムが燃えているところとか、こういうのを見たかった、と。
ただ、このあたりで同時に不満も出る。
絵が小さい割に、結界が壁から離れすぎている。ディテールがまともに見られない。
大量動員を捌くことで頭がいっぱいだから、こういうことになるのだろう。

力点が置いてあるボスのコーナー。
「奇想の画家 ヒエロニムス・ボス」とある。ここまで奇想かよ。本当に勘弁してくれ。
ボスの(そこそこ大きい)絵が2点並ぶのはすごいとはいえ、これなら三菱で見た石の切除の方がまだ「奇想」というには近い。
一気に興ざめである。

そしてブリューゲル(略)

結局のところ、1館からまとめて借りてきたパッケージ展だから、
個別の内容は良いにしても、全体のコンセプトが解らない。
バベルの塔!あと、ボスも2点!見てね!!!」がメッセージの全てだと思われた。
上野動物園にパンダ目当てで人々が殺到するように、バベルの塔が1点来れば群衆が大挙するのである。
これが「ボイマンス美術館展 16世紀ネーデルラントの至宝」とかだったら来場者4割減に違いない。

冒頭に彫刻が集中していたのも納得がいった。
あそこくらいしか置き場所がなかったのだろう。


消化不良も甚だしいので、東博でお茶に触れることにする。

こちらは、とてもいい。
茶の湯前史から、時代を下りつつ様々な茶道具や資料が並ぶ。
知識はほとんど無いに等しいが、それでも何となくでも豊穣な歴史が分かる。

展示も工夫が凝らされ、かつ嫌味がない。
小さなものも、さほどストレスなく見ることができる。
どこかのバベ何とか展は見習ってほしいくらいだ。


一通り見終えると、首が痛い。
どちらの会場も、混雑を見越してか、作品やキャプションが高く設置されていたから。
東博の章解説などは、4ヶ国語がつなげられているせいで日本語の位置が高すぎる。
そのうちフランス語やエスペラントも追加されて天井にも届くんじゃないか。

元祖見世物小屋街は体に厳しい。