どす黒い日記帳

展覧会の感想など(主に都内)

#15 ある彫刻家の考察、あまりに表層的な

東京都美術館で、イサム・ノグチの展覧会が開かれている。
1フロアをまとめ上げる150個の「あかり」によるインスタレーションが売りであり、
その効果か、私が訪問したときは多くの来場者が見られた。

この展覧会が言いたいことは、
アイデンティティの葛藤から、日本美への到達
・かろみ(light)を経て、石への到達
といったことのようである。

それに加えて、プレイスカルプチュアに象徴される、親しみやすい「遊び」の志向もフォーカスされているようで、
その狙い(?)通り、「映える」空間のそこかしこでスマホの撮影音が響いていた。

今どき、”私的利用”という名目のもとで黙認される個々人のSNS拡散は
美術館にとってもはや欠くべからざるものとなっているのは周知の事実である。
問題は、「映え」に執心するあまり、肝心の作品が
あまりに卑小で上っ面な理屈の「作例」として利用されていたことである。

日本美への到達という結論は、いかにも聞こえがよく、
一つの展覧会の意義、名目として十分に成り立つかに見えるが、
その結論に至るための道筋、根拠が全くもって茫漠な印象論の域を出ず、
単に作品の材質であるとか作家の精神性であるとか見てくれに根拠を置いた
都合のいいシナリオだけが通奏低音となってあてもなく漂っている。

もう一つの問題は、「公共建築」、とりわけ慰霊碑構想への言及が、上記のような無邪気な筋立てにより捨象、黙殺されていること。
(それがこの展覧会のストーリーを余計に軽薄なものにしているのだが)
仮にも都立であり歴史も長い同館ならば尚のこと取り上げ、丁寧に検証しなければならなかったはずで、
それを無視して都合のいい物語に腐心したことは致命的な過誤と言うべきものである。

公立館がますます収益を求められ、大衆に「刺さる」企画を常に要求される状況にあって、
その悪しき側面が露わになった一例だと、私には思われた。

さしずめ、納涼にはちょうどいい。