どす黒い日記帳

展覧会の感想など

#23 中村弊の思い出

左右社の『〆切本』を読んでいたら、
書き手の悩みの種として引き合いに出される
編集者の存在が、とても羨ましく思えてくる。

学生時代以来、書くことは常に苦しい。
自分が何故ものを書いているのかという疑念が脳裏に圧し寄せる。
正直、向いていないと今でも思っている。

書く作業はとにかく孤独で、
プロの編集者が直にプレッシャーを掛けてくれるなら、
むしろ此程嬉しいことは無い。

自分の場合は、もの書きを職業としている訳ではない。
仕事のごく一部として、ものを書いているに過ぎない。
編集者はいないので、自分の脳内に編集者を立てて督促してもらうか、
備忘として身近な誰かにアラーム機能だけお願いするくらいしかない。
そして締め切りを逃し、いつの間にか取り返しのつかないことになったとしても、
誰かが火消しをしてくれたり、落ちた原稿を埋めてくれる訳でも無い。

思い出すのは10年ほど前。
中村屋サロン美術館の開館(当時)を取り上げたとあるニュースで、
「中村弊(へい)」という誤字を見つけた事がある。

その時はただ可笑しかった。
当然ながら、美術手帖やアートビートのような美術系メディアではない。
彝を弊と間違えるのは、かろうじて理解できるにしても、
ダメ押しのように「へい」というルビを振ってしまう手厚さが、完成度を高めていた。
惜しむべきは、私がそれをTwitter(当時)で指摘した直後に直しが入ってしまったこと。
そしてどうやらサービス自体が終わってしまったようで、リンクを辿ることができず、
今となっては振り返りようがない。

そしてなぜ今さら思い出すかと言えば、
当時は笑えたことが、もはや笑えないこととして目の前に現れているためだ。

タツ記事のライターなどではなく、大学で美術を専攻し、学位を取っている(はずの)人の話。
決してマニアックではない、手元の端末を検索すれば山ほど情報が出てくる事項なのに、
それらの名前を出すことで、まるで自分が暗号でも唱えているかのように錯覚してしまう。
専門などもはや関係なく、美術をやっているなら基礎知識か一般教養とでも言えるレベルのことを全く知らない。
よって、校正も全く覚束ない。
かといって、スケジュール管理やマネジメントに特化しているわけでもない。
そしてこういった手合いに限って、自分の欠点を他人に押し付け、知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのだから救いようがない。

喫緊の課題は、原稿を〆切に間に合わせることよりも、
自分がいかに良きマネージャーを目指すか、ということかもしれない。
書けないと煩悶し、書くのが向いていないなどと嘆いている閑もない。

#22 エド・イン・ブラック残感

板橋区立美術館で、エド・イン・ブラックを会期末に見た。

江戸絵画には馴染みが薄く、江戸絵画の展示を意識的に見ることもあまりないが、
細かいことは考えず素直に面白く見ることができたのは収穫だった。

ひたすら白黒の絵を見せるのではなく(そうだとしても充分そそるが)、
テーマが実に練られていた。
「月」のトピックの、闇(黒)によって光(白)が引き立つといった明快さ。
また、版画の摺の解説であるとか、数例しかないという蝋染の作品など、
王道からハードコアまでカバーする手厚さが素晴らしい。

つい先日、別の展示でも「黒」を見た。
しかしそれは黒ではなく、群青を焼いたもので、よく観察すると黒にはない青みが見えるのだという。

しかし残念ながら、その青が自分には分からなかった。
軸や屏風などケースに展示される作品は、その時点で距離があるため、「よく見る」にも限界がある。
その上、照明の条件も重なる。解説者はきっと、明るい環境で間近に見ることが出来たのだと思うが、
薄暗い展示室で、更に照明が黄色みがかっていたりすると、黒の奥に群青を見出すのは至難だ。

このように解説者との距離を感じることは多少あるものの、
絵具や支持体についての豆知識はある方が親切だ。
親しみやすさや受けを狙った浮ついた主観の披露ではなく、
受け手の思考を促して更に作品を覗き込みたくなるような仕掛がある解説を積極的に推したい。
エド・イン・ブラックは、後者だったと思う。

#21 全点撮り

美術鑑賞を趣味とするようになって20年以上になるが、
今までずっと不可解だったことの秘密が一つ解けたような気がする。

美術館での撮影可がもはや当たり前になったことで、
撮りたい派と集中して見たい派の分断が色濃くなっている
ーーと思っているのは私だけかもしれないが、
それはともかく前者がかなりの割合を占めることは間違いない。
私もたまには撮っておきたいこともあるし、楽しみ方は人それぞれだ。

それでも我慢がならないのは、
全面的に撮影可としている展示の場合、
必ずと言っていいほど、全点撮りに励む客が一定数いることだ。
楽しみ方は人それぞれだが、
それでも、撮影音が至近距離で頻りに響くのは耐え難いものがある。
その上、ひどい場合には自分が見ている真横からスマホが突き出てくることもある。
そのような経験も、一度や二度ではない。

要は、文句としては煩いということだけなのだが、
そのような行為の理由がどうしても解らなかった。
「理解できない」という語が含む苛立ちを抜きにしても、
シンプルに解らないのである。
わざわざ千円二千円払って、作品を機械的に撮って帰るだけなら、
ネットでもっとマシな画像は幾らでも転がっているだろう。
まして、これだけ撮ってアップが当たり前になっている時代なのだから、
先人のおこぼれに与るだけでもそれなりに満足はできるように思う。

結局のところ、
パンダやキティちゃんなどを撮っている感覚に近いのではないかと想像すると、
通じるものがあるのではという気がした。

つまり、動物園のパンダを撮って楽しむ人々は、
パンダの生態であるとか、毛並みや骨格について洞察しながら撮る訳ではないだろうし、
キティちゃんを撮るときに、リボンの持つ視覚的効果へ思考を巡らす訳でもないだろう。
大事なのは、その場所に行って、出会って、写真に残して余韻に浸ることであって、
ディテールについての考察に体験の本質があるとはいえない。

ただ仮にこの予想が当たっているとしても、
他人が撮影に執心している場に居合わせるのは居心地が悪い。
そのスマホないしカメラを気遣いながら画角を避けるのでは本末転倒だ。

ラーメンはまずスープだけ飲めとか、寿司屋は白身で良し悪しを判断しろとか、そういう話ではない。
まずは目の前に出た料理を一口だけ味わってみて、それから記録するのでも遅くはないはずだ。
同行者が映えを追求するうちに新鮮さを失っていく料理を目の当たりにする時間はあまりに虚しく、
味ばかりか体験までも損なわれる。

「本物を見ないと分からない」というクリシェに進んで乗っかりたいわけではないが、
「本物の前にしないと分からない」体験をしている人間がすぐ横にいる可能性への想像が少しでもあれば違ってくるように思う。

#20 横トリについてのメモ書き

閉幕間際の横トリに行ってきた。見に行って、よかったと思う。
ストレートに「いい展示だった」と言えばいいのにと思いつつも、それはやや難しい。
以下、備忘録程度。

① 展示を1割も見なかった
評判に聞いていたように、映像と文章が非常に多い。
長々と文章を読ませ、映像を十件二十件と配置する種類の現代アート展には辟易しており、
そのため今回のイベントで突出して多いとは思わなかったが、
映像の大半については展示室をふらふら巡りながら音声をなんとなく聞き、
画面に時折目をやって様子を窺うのが関の山で、
個別の内容について解釈や意見を述べることなど全く覚束ない。
シアターで腰を落ち着けて見るならともかく、自分以外の来場者とスペースを譲り合いつつ
歩き回りながら・立ったまま映像を見て(座ろうにもスペースが小さすぎる)、
決して読みやすいとは言えない文章を延々と読み続けるのはそれなりに苦痛である。
頑張って読んだところで、だから何?と思うテキストもある。
途中からは諦めて流し見になるので、
展示を4会場、巡ってはみたものの、見たと言える部分は非常に少ない。

② テーマは分かりやすかった
4会場しか巡らなかったけれど、テーマはとてもはっきり示されていた。
この作品は、こういう文脈で出ているのだろうと、想像がつくものも多い。
テーマ(メッセージ)への賛否は別として、また祝祭感に欠けるとかは別として、よく作り込まれた内容だと思った。
対象や背景が異なるものをごちゃごちゃに詰め込んでいるのは、
狙ってそうしているのか、単にまとまらなかったのか、両方なのかは分からないが、
皮肉や嫌味ではなく、まとまらないのが当然だろうと思った。
そのような中で、横浜美術館に展示された田中敦子のベルにはストンと落ちるところがあった。
キュレーションの妙を感じた。
一方で、児島善三郎や長谷川潔は場違いだった。展示環境が作品に合っておらず、作品が台無しだった。
原始回帰という擦り切れたテーマの中に児島が置かれており、
セクション全体も消化不良で、勅使河原蒼風岡本太郎でゴリ押しされた方がよかったかもしれない。
長谷川潔に関しては、横浜美術館のコレクションを無理に使おうとした印象がある。
「草ならなんでもいいのか」とも思った。

③ 刺さったコーナー
さまざまな作家がごった煮であった中で、作家の個展とも言うべきものがいくつか組み込まれており、目を引いた。
富山妙子特集と、李平凡特集が興味深い。
それ以外では、アネタ・グシェコフスカのシリーズ作品2つが織り交ぜられたコーナーがとても良かった。
画が強い。和やかな光景に見えて、鳥肌が立つほどゾッとした。
その共存が巧みだと思った。
ガラスケース内に並べられていたさまに異様さを覚えたことも関係あるかもしれない。
この種の企画は全体像の1割も触れる間も無く体力の限界が来てしまうのだが、
こうした部分に楽しみを見つけると、「(理解したとは言えないが)見に行って、よかった」と思える。

#19 語彙力

展覧会をそれなりの頻度で見ていると、自分に合う展示も合わない展示もある。
明らかな事実誤認のレベルはともかくとして、企画者や運営のスタンスやスタイルはそれぞれだし、
何かしらの意図や思いはあるはずだから、大体のことは不満があっても愚痴や悪口を吐き出しておけば、いずれ忘れられる。

その上で、久しぶりにひどい展示を見た。
合う合わないという以上に、とにかくひどいのである。
不満を通り越して、怒りすら覚える内容で、とりあえず一つの感想として書き残しておきたい。

「みちのく いとしい仏たち」展の何にそこまで腹が立ったのかを考えていたら、
懐かしい図録が書棚から出てきた。

偶然にも(偶然ではないのだが)いくつもの共通項があった。
企画協力に同じ専門家が関わっており、どちらもN◯Kプロモーションが関わっている。
図録のデザインを揃えていることからも、「日本の素朴絵」展を意識していることが分かる。

しかし、方向性は同じはずなのに、決定的な違いがあるように思う。

あえて一点だけ挙げると、「みちのく いとしい仏たち」(以下、「いとしい仏」)には圧倒的に情報が足りないのである。

「日本の素朴絵」に散りばめられているゆるさ。
中には「おとぼけ」とか「脱力系」とか悪ふざけの類いも見て取れる一方で、
担当学芸員による解説がふざけた演出とセットになっている。
作品の主題やバックボーンについて随所で説明されているのに加え、作品解説だけのページが巻末に32ページ付いている。
つまり、「おふざけ」と、実のある解説それぞれに役割がしっかりと分けられていて、
展覧会で紹介される「素朴」な表現がどこに由来するのか、前提知識がなくても、それなりに言語化できそうな作りになっている。

「いとしい仏」の方は、そういった解説がほとんど無い。
お像の由来や造形など、申し訳程度の断片的な解説もあるにはあるが、
それを呑み込んでしまうのが、全編に及ぶ「解説者」の悪ふざけである。

「朴訥ということばがふさわしい顔立ち」
「プリプリした童子体型」

こんなに読み手を馬鹿にした書き振りがあるだろうか。
展覧会の「エンタメ」要素はもちろん大事だとして、
それでもこのレベルのことなら観客がそれぞれに思ったり感想を交わしたりすれば良いのであって、
宴会おじさんの腹踊りレベルのノリ(酒に酔った勢いで書いたのではないか)を見せつけられる身にもなってほしい。

この、解説の圧倒的な不足が、展覧会の外見を薄っぺらいものにしている。
それぞれの陳列品にまつわる情報が抜け落ち、内輪の悪ふざけが残るとき、
陳列品に対する悪意のない蔑みや、上から目線の賛美が前景化してくる。
その敬意のない態度が恥ずかしいし、時間を置いても腹立たしい。
単なる好悪の感情を超えて、語り手の不誠実さが露わにされた醜悪さが耐え難かった。

このひどい体験を終えて帰ったとき、せめてもの慰めになるのは
対面したお像との幸運な出会いと、買った図録の「いとしさ」で、
それ以外のものはここに吐き捨てて、一日でも早く忘れるのを待ちたい。

#18 広くて狭い

蔡國強展に行った。
予想よりも、かなりごった返している。
会期が比較的短いせいもあると思うが、
展示面積の半数近くが焦げた紙なので仕方ないと自分を納得させてみる。

2,000m^2の展示室、それに休憩室まで全体を使った展示は見応えがある。
それなのに非常に狭いのである。

単純に混んでいて狭い。
大型作品が多いので結界だらけで狭い。
展示室全体が映えスポットなので更に狭い。

頭をよぎったのは、六年ほど前の草間展である。
大画面の絵画で壁全体を埋めた、撮影可能な大きい展示室。
全て壁掛けだったので、あの時の方がまだましだったかもしれない。

むしろ、その展示が狭かったのは、大部屋を見終えてから外側を回廊のように巡る
細切れの展示室のせいである。
今度は、そうした壁の仕切りが一切ないだけ、その分はましかもしれない。

とはいえ、部屋を丸ごと一室として開放し、全体を大きく使った展示。
スケールの大きさは、それだけで壮観で、十分すぎるほど見応えがある。

しかし、十分に味わえたという感覚がない。

私の場合、部屋の狭さをより意識させられたのは、キャプションの小ささだった。
作品は退いて見る大きなものがメインであるのに、キャプションの文字は間近に寄ってやっと読める程度。
それだけでもストレスが強い。

いちいち真面目に読まなくていいというのが主催のスタンスなら、
そんな細かいことに目くじら立てるとは頭が固いとか、あしらわれるだけ無駄かもしれない。
でも「解説を全文読める」というQRのリンクが掲示されていたところを見て、
それなりに不評だった想像もつく。
何れにせよ、端末でいちいちじっくり読めるだけのスペースの余裕もないのだから、
展示設計がいかにもバランス悪く、不親切な印象は拭いがたい。

休憩室に用意された展示も、内容それ自体は強い関心を喚起するものであったが、
これこそ狭すぎるし小さすぎる。写真やキャプションの情報が豊富で、
記録映像も使って丁寧に見せてくれるが、とにかく狭いというストレスが勝った。

現地に行って、何となく空間に浸っただけでも目的を果たしたのだと思いたい。
その思い込みがうまくいくかは分からない。

#17 閉ざされたコレクション

京都の近代美術館。
ちょうどいいタイミングで京都にいたので行ってきた。
60周年という節目の展示をやっており、招待客の先生方が内乱で盛り上がっていたらしいのを
偶然知ってからの訪問だったが、平日ということもあってか驚くほど静かだった。

今日のポンテンコラリーアート受容への道筋をつけた展覧会の要約的な内容だったので、
展示物の既視感は相当強い。(ポスターのデザインを見た時点で、ある程度内容の想像はつく)
既視感が強いのは「見たことがある作品」だからではなく、
同じ傾向の作品があまりに多い作品の多さにあるのだが、
個人的に面白かったのは、あの巨大なアルミ製の耳が横になっていたことである。
テープでバミったようなスペースに床置きとは、このような展示をする意味について
何か訊かれているような、試されているように気にもなり、やや落ち着かなかった。

それは兎も角、このように今から見れば近代と現代のはざまにある過渡期的な時代の展示を
美術館の過去の収集を活かして再演する展示は、コンスタントに見る機会があってほしい。

通りを挟んだ向かいの美術館にも行ってきた。
改めて、本当に大きい。広い。
企画展だけで3件。それとコレクション展、他にも色々あったが、さすがに全部を見る余裕はない。
意外だったのは、館内には多くの人が出入りしているにも関わらず、
本命かと思われたローランサンの会場があまりにゆったりしていたことである。
その一方で、非常に混雑した展覧会もあったが、これについては触れない。

それより非常にもったいないのは、コレクション展である。
このエリアに入るのは初めてだったが(前に訪れた時は閉まっていた)、
充実した内容であるのに、本当に人が少ない。
多くの美術館は、企画展のチケットを買えば常設展も見られるようになっているが、
この美術館ではコレクション展も別料金(それも、なかなかの料金)なので、
これでは「集客」など望みようもない。
公立なのに、その基盤となるはずの常設展のハードルが高いのは、あまりに厳しい。

せっかく良いものが揃って、良い空間に並べられても、
そこへ行くまでの道程が整備されていないことには仕方がない。
一見さんお断りの隠れ家的な料亭なら兎も角、
こうして(物理的にも)公に開かれた食堂ならば、もう少しふらっと入れる気遣いがほしい。

というのは、今となってはもはや時代遅れの考えなのかもしれない。