どす黒い日記帳

展覧会の感想など(主に都内)

#5 王国というか迷宮

世間はゴールデン・ウィークということで、黄金に輝く人々の姿が多く見られたが、私はいつも通りの有り様で、真っ黒オーラで晴れやかな空気から身を守っていた。

そんな私にピッタリの展覧会があった。
アール・ブリュットアウトサイダー・アート関連では真っ先に名の挙がる、
アドルフ・ヴェルフリの展覧会である。
不遇の生活環境で精神を病み、収容生活の中で猛烈に絵を描き続けた人物。
私が扱わないという選択肢がない。

浅学の私も、これまでに何度か触れたことがある。
その作品を、瑞西國なる異邦で目にしたりもした。
ただ、日本國で見るのは初めてかもしれない。
それも、なぜ最終会場が東京駅なのか...。

会場へ行く。
生憎、私は珍しくも二日酔いの身体を持て余していた。
階上へ上がって早々、いつもと違う動線に撹乱される。

綺麗な額に、人の顔、模様、文字が蠢いている。
最初の絵の題名が、「リーゼリ〔リーゼちゃん〕・ビエリ!死」

さっぱり意味が分からない。
これを活字に起こしている人はどういう思いなのだろうか。
というか、作中から単語を拾って題名とすることにどれ程意味があるのか。
始終この調子なので、都度読んでいくのは諦めた方が良さそうである。

そしてやはり、このような体調でこのような展示を見るという選択に後悔した。
進むごとにテンションが下がる。コンデションが悪化する。
絵が気持ち悪いのは分かりきったことなのだが、
元々天地がない絵がひとつ一つ丁寧に壁に吊られている様が腑に落ちない。
もちろん、問題を承知でこのようにしているのだろうが。そう信じたい。

そういった訳で、内容を読み取るどころでなく、
悶絶しそうなのを抑えながら会場を回りきるのが精一杯という始末だった。
個別の解説もなく、いたって規則正しく配置され、
狂ったようなタイトルだけで投げ出された作品群から
何かを読み取るということに、そもそも限界はあるのだが。

本当は他にも書きたい点はあるが、ごちゃごちゃしそうなのでやめる。
というより、頭がごちゃごちゃしてて書けない。
再訪は未定。

#4 美術館と劇薬

しばらく行っていない美術館に行こうと思った。

たまたま近くに用があったので、坂を30分ほど登ってワタリウム美術館へ行った。

ワタリウムは、私にとって特別な位置を占めている。

いつ劇的ビフォーアフターされてもおかしくない、狭小住宅のような建物。
展覧会の、他に類を見ない謎のラインナップ。
個人的な満足度の平均をとったら、星2つくらいだろうか。
にも関わらず、時々無性に行きたくなる。
私にとって、パクチーのような存在である。

軽い気持ちだった。

展示情報をしらべたら、あのカリスマアーティストがフィーチャーされているという。そういえば、某美術雑誌でも特集が組まれていたか。読まないけど。

夕方だったこともあり、比較的遅くまで開いていることも、私を後押しした。

会場に入って、妙な空気に気づく。
暗い部屋に流れる大音量の音楽。
小さく固まって静かに聞く人々。
教会のミサか何かに、何も知らず迷い込んだかのようだった。
明らかに場違いだった。

考えてみれば、大抵の場合ファンでなければわざわざ千円払って中に入ろうとは思わないだろう。異端であることがバレはしないかと恐れつつ、平静を装いながら私も音楽を聴くことにした。

周囲は暗くてよく分からないが、雰囲気はとても穏やかだった。
ある人は瞑想していたかもしれないし、涙する人もいたかもしれない。
私はといえば、始終、心をえぐられるようであった。
中学生の頃これを聴いたら狂喜したに違いないと、
その当時の自分が黒歴史とともに脳裡に甦り、気を失いそうになった。
パクチーどころの騒ぎではなかった。

やっと会場を後にすると、観客からのメッセージが散りばめられた一角に目が止まる。
展覧会というよりは、タワーレコードの有料試聴イベントのようなものだったと考えた方がよいか。
5.1サラウンドで映像付きで、ファンにはたまらないだろうと思う。
それ以上の言葉は、まだ思いつかない。

#3 アッパーフィールドにて

今日はベタに上野だった。
主な目的は藝大だった。
「みんな、オラに力を分けてくれ」な感じの呂洞賓がまもなく公開終了だというので、これはいけないと思った。

ひそかに気になっていた雪村展。
「「ゆきむら」ではなく「せっそん」です」というふざけたコピーも、いかにも上野イズムで、ここまで来ると職人的矜持さえ見えて感慨を覚える。

曰く、雪村は、今をときめく奇想の走りらしい。
安易な奇想便乗商法は滅びよと常々祈っているが、ルーツならば、無理に他の言葉を使うのもと思った。

序盤から絵に引き込まれる。
奇想というと大胆で豪快とか、執拗に細密というイメージを抱くが、そのどちらというわけでもない。
ただ、岩石や衣紋の筆致の速さや、米粒ほどの人物をいちいち描いてしまうねちっこさは、とてもよかった。
何より、呂洞賓のおじさんはもとより、鷹にまで鼻毛を生やしてしまう、戦国の鼻毛フェチとしての誇りに心打たれた。

総じて満足であったが、照明はやや残念。
全体的に暗いのは仕方ないとして、上から下へいくほど暗いというムラが気になる。映り込みも結構しんどい。

ともあれ、前期に駆け込んだことはよかった。

ついでに、保存修復彫刻研究室の発表展やってた。

午後、科博に行く。
今にして思えば、何故この順序にしたのか。

2、3年に一度、上野あたりで開かれている名品展の延長のつもりで足を踏み入れた。
実際に見ると、序盤はあまりに見世物小屋だった。
科博はいつもこうなのだろうか。久しぶりすぎてわからないけど。

時代も資料の種別も関係なく並ぶ、キャッチーな標本や資料。
キリンの首とか、地味にぐろい。
ここまで露骨な趣向は今時珍しいのではと、そういう意味で感動した。

しかし、中盤から突如として、大英自然博の歴代スタッフや関係の学者などの名前が現れ始め、その功績とともに関連資料が並ぶという教育的な展示に移行する。
とはいっても、たった数点ずつの資料で、ずらっと並ぶ面々に思いを致せというのも酷であるし、絶滅種の標本を並べて生物多様性を訴えるとか、あまりに(狭い意味で)教科書的で相当無理がある。
本音はやっぱり、「変なの珍しいの可愛いのいっぱい集めたから見て」という無邪気な見せびらかしのはずだと思いたくなる。

そして藝大美術館の時も思ったが、展示ケースがきたない。

#2 最近はやりの驚異の部屋的な

初台のオペラシティへ。
先日の六本木とはうってかわって、週末だというのに施設全体に全くにぎわいがない。
私のような社会不適合者には、とても理想的な環境である。

はじめに告白すると、「片山正通的百科全書」というキャッチーな題目に過大な期待を寄せてしまった。
私の頭の中には、昨年の横浜で某有名美術家が展開した、超平面収集品的展示空間が反復された。
あそこまでではないにしろ、楽しそうな空間を想像した。

実際見た印象はどうだったか。
個人コレクションのお披露目会——それ以上でも以下でもない。
会期序盤のため、詳細は割愛するが、一貫性がありすぎて、特に感じるところがない。
(途中、V○CA展で見た作品と再会しちゃったトホホ)
某有名バンドVo.とのコラボは、ステートメントにイラっときてスルーした。

ヴンダーカマーを意識したような部屋があるが、
IMTほどに歴史の積み重ねもないし、(良くも悪くも)強引な接続もない。
金持ちの居間にありそうな剥製や、少し古びたフィギュアが並ぶせいで、セレブお宅訪問かと錯覚してしまう。

全体としては、近年はやりの「個人コレクション、どーんと見せます」趣向に
ヴンダーカマーへの憧れをブレンドしたものと想像したが(だとするとあまりに不完全燃焼だが)、違うのかもしれない。
私の思い描いたものや、期待した方向自体に問題があるのかもしれない。

よくわからない。

#1 ミュシャ彌生

新美術館に行った。
ミュシャ草間彌生
このような大混雑必至の企画を同時期に開くなど、正気の沙汰とは思えないが仕方ない。

中は、果たして混んでいた。
ロビーに蠢く人波を見るだけで、帰りたくなる。

そう思いはしたが、会場に入ってみる。
まずはミュシャ
評判通り、大きい。
とにかく、大きいという感想しかない。

これまでにもミュシャのタブローを見る機会があったが、
中間色ばかりで攻めているからか、人物はのっぺりと見えて、まるで舞台の書き割りである。
今回は見上げるほど大きな絵ばかり揃っていたから、尚のこと書き割りだった。
というわけで、ミュシャの書き割りマイスターぶりを見るにはこの上ない機会であった。
もうこれらの大作と再会することはないだろう。

次に彌生。
大きな絵がいっぱいある。
最初の部屋に入ったときのこの感じ、つい最近体験したように思うのだが気のせいか。

近作は正直あまり関心がないので、さっと流し見る。
それより気になるのは、嬉々として撮影に興じる群衆である。
まるで動物園のパンダの檻だ。

それはさておき、メインと考えていたのは後半である。
実際、初期から時代を追って、充実した作品が並んでいた。
しかし、何か物足りない。

時代順のはずなのに、部屋ごとの連関がほとんど見えなかったのである。
同じ系統の作品を小部屋に押し込んで、ハイ、次の部屋といった具合で、実に見づらい。
最初の部屋が大きすぎて、残りが随分狭かったということもある。
回廊状の展示室の中にストーリーが感じられず、何とも勿体無い気がした。

どちらの展覧会からも得た印象は、最初の部屋にパワーが集まりすぎて、
残りの部屋が乱雑ということだった。
ミュシャの方も、スラブ叙事詩の後はバラバラと色々な作品が集まっていて、集中できない。
後半、バッサリ切ってもよかったんじゃないかと思うくらい。

このように書いている時点で、私のような者が見に行く資格はなかったかもしれないが、
これらの展覧会を強力に宣伝するメディアや、そこへ便乗する美術雑誌のせいにしておく。