どす黒い日記帳

展覧会の感想など(主に都内)

#19 語彙力

展覧会をそれなりの頻度で見ていると、自分に合う展示も合わない展示もある。
明らかな事実誤認のレベルはともかくとして、企画者や運営のスタンスやスタイルはそれぞれだし、
何かしらの意図や思いはあるはずだから、大体のことは不満があっても愚痴や悪口を吐き出しておけば、いずれ忘れられる。

その上で、久しぶりにひどい展示を見た。
合う合わないという以上に、とにかくひどいのである。
不満を通り越して、怒りすら覚える内容で、とりあえず一つの感想として書き残しておきたい。

「みちのく いとしい仏たち」展の何にそこまで腹が立ったのかを考えていたら、
懐かしい図録が書棚から出てきた。

偶然にも(偶然ではないのだが)いくつもの共通項があった。
企画協力に同じ専門家が関わっており、どちらもN◯Kプロモーションが関わっている。
図録のデザインを揃えていることからも、「日本の素朴絵」展を意識していることが分かる。

しかし、方向性は同じはずなのに、決定的な違いがあるように思う。

あえて一点だけ挙げると、「みちのく いとしい仏たち」(以下、「いとしい仏」)には圧倒的に情報が足りないのである。

「日本の素朴絵」に散りばめられているゆるさ。
中には「おとぼけ」とか「脱力系」とか悪ふざけの類いも見て取れる一方で、
担当学芸員による解説がふざけた演出とセットになっている。
作品の主題やバックボーンについて随所で説明されているのに加え、作品解説だけのページが巻末に32ページ付いている。
つまり、「おふざけ」と、実のある解説それぞれに役割がしっかりと分けられていて、
展覧会で紹介される「素朴」な表現がどこに由来するのか、前提知識がなくても、それなりに言語化できそうな作りになっている。

「いとしい仏」の方は、そういった解説がほとんど無い。
お像の由来や造形など、申し訳程度の断片的な解説もあるにはあるが、
それを呑み込んでしまうのが、全編に及ぶ「解説者」の悪ふざけである。

「朴訥ということばがふさわしい顔立ち」
「プリプリした童子体型」

こんなに読み手を馬鹿にした書き振りがあるだろうか。
展覧会の「エンタメ」要素はもちろん大事だとして、
それでもこのレベルのことなら観客がそれぞれに思ったり感想を交わしたりすれば良いのであって、
宴会おじさんの腹踊りレベルのノリ(酒に酔った勢いで書いたのではないか)を見せつけられる身にもなってほしい。

この、解説の圧倒的な不足が、展覧会の外見を薄っぺらいものにしている。
それぞれの陳列品にまつわる情報が抜け落ち、内輪の悪ふざけが残るとき、
陳列品に対する悪意のない蔑みや、上から目線の賛美が前景化してくる。
その敬意のない態度が恥ずかしいし、時間を置いても腹立たしい。
単なる好悪の感情を超えて、語り手の不誠実さが露わにされた醜悪さが耐え難かった。

このひどい体験を終えて帰ったとき、せめてもの慰めになるのは
対面したお像との幸運な出会いと、買った図録の「いとしさ」で、
それ以外のものはここに吐き捨てて、一日でも早く忘れるのを待ちたい。

#18 広くて狭い

蔡國強展に行った。
予想よりも、かなりごった返している。
会期が比較的短いせいもあると思うが、
展示面積の半数近くが焦げた紙なので仕方ないと自分を納得させてみる。

2,000m^2の展示室、それに休憩室まで全体を使った展示は見応えがある。
それなのに非常に狭いのである。

単純に混んでいて狭い。
大型作品が多いので結界だらけで狭い。
展示室全体が映えスポットなので更に狭い。

頭をよぎったのは、六年ほど前の草間展である。
大画面の絵画で壁全体を埋めた、撮影可能な大きい展示室。
全て壁掛けだったので、あの時の方がまだましだったかもしれない。

むしろ、その展示が狭かったのは、大部屋を見終えてから外側を回廊のように巡る
細切れの展示室のせいである。
今度は、そうした壁の仕切りが一切ないだけ、その分はましかもしれない。

とはいえ、部屋を丸ごと一室として開放し、全体を大きく使った展示。
スケールの大きさは、それだけで壮観で、十分すぎるほど見応えがある。

しかし、十分に味わえたという感覚がない。

私の場合、部屋の狭さをより意識させられたのは、キャプションの小ささだった。
作品は退いて見る大きなものがメインであるのに、キャプションの文字は間近に寄ってやっと読める程度。
それだけでもストレスが強い。

いちいち真面目に読まなくていいというのが主催のスタンスなら、
そんな細かいことに目くじら立てるとは頭が固いとか、あしらわれるだけ無駄かもしれない。
でも「解説を全文読める」というQRのリンクが掲示されていたところを見て、
それなりに不評だった想像もつく。
何れにせよ、端末でいちいちじっくり読めるだけのスペースの余裕もないのだから、
展示設計がいかにもバランス悪く、不親切な印象は拭いがたい。

休憩室に用意された展示も、内容それ自体は強い関心を喚起するものであったが、
これこそ狭すぎるし小さすぎる。写真やキャプションの情報が豊富で、
記録映像も使って丁寧に見せてくれるが、とにかく狭いというストレスが勝った。

現地に行って、何となく空間に浸っただけでも目的を果たしたのだと思いたい。
その思い込みがうまくいくかは分からない。

#17 閉ざされたコレクション

京都の近代美術館。
ちょうどいいタイミングで京都にいたので行ってきた。
60周年という節目の展示をやっており、招待客の先生方が内乱で盛り上がっていたらしいのを
偶然知ってからの訪問だったが、平日ということもあってか驚くほど静かだった。

今日のポンテンコラリーアート受容への道筋をつけた展覧会の要約的な内容だったので、
展示物の既視感は相当強い。(ポスターのデザインを見た時点で、ある程度内容の想像はつく)
既視感が強いのは「見たことがある作品」だからではなく、
同じ傾向の作品があまりに多い作品の多さにあるのだが、
個人的に面白かったのは、あの巨大なアルミ製の耳が横になっていたことである。
テープでバミったようなスペースに床置きとは、このような展示をする意味について
何か訊かれているような、試されているように気にもなり、やや落ち着かなかった。

それは兎も角、このように今から見れば近代と現代のはざまにある過渡期的な時代の展示を
美術館の過去の収集を活かして再演する展示は、コンスタントに見る機会があってほしい。

通りを挟んだ向かいの美術館にも行ってきた。
改めて、本当に大きい。広い。
企画展だけで3件。それとコレクション展、他にも色々あったが、さすがに全部を見る余裕はない。
意外だったのは、館内には多くの人が出入りしているにも関わらず、
本命かと思われたローランサンの会場があまりにゆったりしていたことである。
その一方で、非常に混雑した展覧会もあったが、これについては触れない。

それより非常にもったいないのは、コレクション展である。
このエリアに入るのは初めてだったが(前に訪れた時は閉まっていた)、
充実した内容であるのに、本当に人が少ない。
多くの美術館は、企画展のチケットを買えば常設展も見られるようになっているが、
この美術館ではコレクション展も別料金(それも、なかなかの料金)なので、
これでは「集客」など望みようもない。
公立なのに、その基盤となるはずの常設展のハードルが高いのは、あまりに厳しい。

せっかく良いものが揃って、良い空間に並べられても、
そこへ行くまでの道程が整備されていないことには仕方がない。
一見さんお断りの隠れ家的な料亭なら兎も角、
こうして(物理的にも)公に開かれた食堂ならば、もう少しふらっと入れる気遣いがほしい。

というのは、今となってはもはや時代遅れの考えなのかもしれない。

#16 ペインティング・オブ・ゴールド

この日記帳も、しばらく開けないうちに埃を被り、中身も煤けてしまったように思う。
そうした中で、この日記帳に書き加えるにふさわしい展覧会を見た。

会場は、大阪市内の高層ビル。
名前には聞いていたが、踏み入るのは初めてである。

赤を基調とした、気持ち悪趣味なポスターも目を引くが、
しばしば流れてくる祭りのようなシーンを捉えた画像が、
私の足を急がせた。
(早く見たいという意欲と、ネタバレされないうちにという防御本能が綯い交ぜである。)

画になる撮影可能エリアには勿論すごみがあったが、
個人的に特に得がたいのは、ガラスケース内に屏風が立ち並ぶ、
いたってオーソドックスな展示である。
展示室に設えられた櫓の上、見えないくらい高々と絵が掲げられたり、
蝋燭の灯りを演出した照明でボゥっと絵が揺らめく(気がする)
といった演出は、絵金祭りの再現といった意味でも意義があることなのだろうとは思うが、
ちょっと「やり過ぎ」と思うのも正直なところ。
固より私の頭が古いというのも一応わかっている。

何より、あの手の「画になる」撮影エリアの罪なのは、
その目論見通り、そこら中で撮影=スマホ音が響くところである。
非常に煩い。慣れない。

そしてこうした会場では、全て撮りたい人と何故か必ず出会す。
じっくり見ている横や背後から、見る待ちではなく撮る待ちの圧がかかる。
楽しみ方はそれぞれだろうが、あの小さい画面に懸ける執念のような何かに触れると、
まるで自分が今味わっている空間や時間のすべてが、その卑小なメモリに吸い込まれていくかのような感覚になる。
空虚と言おうか嫌悪と言おうか。ーー
そのどちらでもない、曰く言い難い遣る瀬無い感覚を奥歯で噛み潰し続けながら、
今日も明日も撮影可能エリアに足を向けていくのである。

#15 ある彫刻家の考察、あまりに表層的な

東京都美術館で、イサム・ノグチの展覧会が開かれている。
1フロアをまとめ上げる150個の「あかり」によるインスタレーションが売りであり、
その効果か、私が訪問したときは多くの来場者が見られた。

この展覧会が言いたいことは、
アイデンティティの葛藤から、日本美への到達
・かろみ(light)を経て、石への到達
といったことのようである。

それに加えて、プレイスカルプチュアに象徴される、親しみやすい「遊び」の志向もフォーカスされているようで、
その狙い(?)通り、「映える」空間のそこかしこでスマホの撮影音が響いていた。

今どき、”私的利用”という名目のもとで黙認される個々人のSNS拡散は
美術館にとってもはや欠くべからざるものとなっているのは周知の事実である。
問題は、「映え」に執心するあまり、肝心の作品が
あまりに卑小で上っ面な理屈の「作例」として利用されていたことである。

日本美への到達という結論は、いかにも聞こえがよく、
一つの展覧会の意義、名目として十分に成り立つかに見えるが、
その結論に至るための道筋、根拠が全くもって茫漠な印象論の域を出ず、
単に作品の材質であるとか作家の精神性であるとか見てくれに根拠を置いた
都合のいいシナリオだけが通奏低音となってあてもなく漂っている。

もう一つの問題は、「公共建築」、とりわけ慰霊碑構想への言及が、上記のような無邪気な筋立てにより捨象、黙殺されていること。
(それがこの展覧会のストーリーを余計に軽薄なものにしているのだが)
仮にも都立であり歴史も長い同館ならば尚のこと取り上げ、丁寧に検証しなければならなかったはずで、
それを無視して都合のいい物語に腐心したことは致命的な過誤と言うべきものである。

公立館がますます収益を求められ、大衆に「刺さる」企画を常に要求される状況にあって、
その悪しき側面が露わになった一例だと、私には思われた。

さしずめ、納涼にはちょうどいい。

#14 格式の高い下品

先日、ジャコメッティの映画を観に行った。
去年ジャコメッティ展を見たということもあり、折角だからと思った。

Final Portrait というタイトルが示すように、
ジャコメッティの最後の肖像画のモデルとなったロードが、
モデルを引き受けたばかりに振り回される物語である。

しかし何というか、こうした実話ベースのものに限らず、
酒と情事と懊悩と癇癪でパッケージされた製品の多さには辟易する。
本作も、その例にもれなかった。
ジャコメッティは妻の目の前で娼婦と浮気するし、
妻も対抗してか夫の親友と浮気するし、
ロードは恋人と電話で痴話喧嘩するし、
とにかく組み立てが安くて胃もたれがする。
そして、本作の安さは何よりShitという単語の登場回数の多さに表れている。
17回は出てきた。数えてないけど。

ただ、さすがコメディ()というだけあって、各所で客席から笑いがこぼれていた。白々しい。

なので、こうした芸術家映画を観るときの楽しみがあるとしたら、
芸術家を演じる主人公が「よく見つけてきたな」と思うくらい本人に似ていることだろう。
そっくり芸の白眉「ミッドナイト・イン・パリ」が現れてから、その傾向はエスカレートしているように思う。
恐らく、そっくりさんを見つけてそっくりに役作りしてしまえば、現場の仕事は9割終わったも同然なのだ。
あの伸びきった即席麺のようなシナリオが世に垂れ流されてしまうのも、そう考えれば合点がいく。

そういう意味で惜しまれるのは、作中に登場するジャコメッティ()の肝心のポートレートがクソ下手ということだ。
いや、こんな絵描いてたら、Sxxx! とか叫ぶ前に黙って絵筆折るでしょ。大芸術家なら。

たぶん、あまり似せすぎると財団からクレームが入ってしまうから、ギリギリの線を狙ったのだろう。
そういう意味でも、本家に対する敬意を忘れない、そっくり芸と真摯に向き合った名作なのだ。きっと。

#13 ある日の写真探訪

ある晴れた日の昼下がり。駅の改札口。
辺りは往来する人でごった返している。
その日は写真日和であったので、写真を見て回ることになった。
最初に出向いたのは、米国橋画廊という
都心の陰にひっそりと佇む画廊だった。
その、光の差さない、いかにもひっそりとした画廊では、
建設中というテーマで写真展が開かれていた。

建設現場。疑いようもなく、建設現場であった。
作者は、〈未完の美〉を追求しているという。中学二年生が一度は通る道に敢えて留まり続ける覚悟と矜持に、胸を打たれた。
眉を毫も動かすことのない時間が、その場に流れた。

次いで向かったのは、ナヂッフという、改装したばかりの施設である。

地下の展示を見る。
前々からそうだったが、先生の写真は、上手い写真であって、いい写真だとは全く思わない。木彫りの白熊とか、どう反応していいのかわからない微妙な物を置いてお茶を濁さないでほしい。今回も相変わらずだった。

三階へ上がる。
うん・・・。顔写真をいっぱい重ねていた頃はまだしも、近作は全くハマらない。奈良原一高山崎博を足して、水で100倍に薄めたらこういう感じになるだろうか。

最後に、頂上美術館である。
同館が改修を経て、みずから頂上を宣言してから、奇妙な低めの変化球が放たれがちの日々が経験されたので、今回も若干の不安があった。

3階のテーマは、アジェである。
これまでに同館で開いてきたアジェ関連の展覧会ではフランスを中心として取り上げたので、今回はアメリカを中心に据えるという。
それは果たして、手堅かった。
アジェを一つのインスピレーション源と定め、マン・レイアボット、スティーグリッツ、フリードランダーと、アメリカ写真の一系譜が綴られていく。こういうものが見たかった・・・。変化球もいいけど、たまにはこういうものもなくては。
と、安堵したのも束の間。

とつぜんのあらーきー。

まただよ。
また「あえての」変化球だよ。
アメリカ中心て言ってなかったか。中心ってなんだ。最近、こういう雑な隠し味(隠れてない)が多すぎないか、ここは。

晴れた日の昼下がり、胸には濃霧を抱いて写真探訪を終えた。